霊明神社

霊明神社の起源

死して、護国の神になる

幕末や、太平洋戦争など、国の為に亡くなった方々は、 靖国神社や、京都の霊山護国神社等の[招魂社]に祀られている。

 なので靖国神社(1869年建)・霊山護国神社(1868年建)も明治期創建の新しい神社である。靖国神社がもしかしたら、京都の坂本龍馬墓所の霊山になっていたかも知れない話をしよう。

お葬式は、ほとんど寺や葬儀場で行われているが、わずかに神社でも執り行われている。(神道葬祭)

幕末の志士達を最初にお祀りして墓を供養したのは、 現在、霊山護国神社に隣接する1809年創建 霊明神社 』である。

徳川幕府の政策で、日本国民 全てが仏教徒とされていた時代に神道による葬式(神葬祭)を断行した神社である。

 1862年、三世神主:村上常陸都平(クニヒラ)の時、長州・毛利家と繋がり、在京志士の葬送・祭礼地になった。

安政の大獄(18581859)以降 殉難志士の『 報国忠死の霊魂祭 』が始まった。

1863年、吉村虎太郎(18371863)が友人:宮地宣蔵(18381863)の祭礼依頼をして…1864年、長州の久坂玄瑞(18041864)が先祖の永代供養を依頼。同年6月7日池田屋事変で死亡した[ 吉田稔麿 ]らの遺体を長州屋敷が埋葬した。

     上記だけでなく、数々の幕末話が伝わっている。

しかし明治維新後の神仏分離令・上知令により、明治10年、霊明神社のほとんどの土地( 1880坪余 )が取り上げ( 没収 )されてしまった。

幕末に第121:孝明天皇(18311866)から、招魂社を造るようにとの命により、招魂社関東に靖国神社、京都は、霊明神社の場所に 霊山護国神社 が明治に創建された。

現在、霊明神社は小さくなり、 広い土地を貰った霊山護国神社は、坂本龍馬たちの墓を、 観光資源( 墓参料金300 )のように扱っている。
霊山護国神社が、初めに葬式をした訳でも無いのに、自分の場所に初めから墓があったかのように振る舞い、霊明神社の話は抹殺されて しまっている。

 しかしたら、霊山護国神社の場所が 靖国神社 となっていたかも知れないというのに。

靖国神社も、坂本龍馬墓所も日本で知らない人がいない場所だが、一番最初に、墓を供養したのは 霊明神社 であるのを知って欲しい。 

 文久2(1862)12月日本初の私祭による招魂祭が執り行われた場所である事を知って欲しい。

  別の話で、現在 霊山護国神社にある 土佐稲荷 招魂社や、天誅()組の墓は、以前はもっと南側の山肌に存在した。

坂本龍馬が亡くなる前に歩いた道や、 龍馬と慎太郎の遺体葬送ルートは霊山護国神社の参道(現在名称:維新の道)より、 一筋南の山道(階段)で、正法寺と霊明神社に辿り着く。

葬送ルートに存在した土佐高知藩稲招魂社と天誅()の墓は、明治100年の昭和40年頃に全て移転させられて、

その墓地跡には、マンションが建ち、志士達の墓維新の功臣1356柱を見下ろしている。


霊明神社のその後も悲しいが・・・・天誅()組の墓所跡が、金儲けの材料となり、マンションになったのが一番悲しい出来事である。

 小さくなった霊明神社ではあるが、沢山の幕末資料や志士の未発表の手紙が保存されている。
久坂義助(玄瑞)・伊藤春輔(博文)・品川弥次郎・などの霊明神社との連絡文章。

これから、古文書の解読がされたら、随時公開となるだろう。
因みに、現在の霊明神社(京都市東山区清閑寺霊山町)・八世神主:村上氏は京都歴史研究會と懇意にしていただいている。

                  記:京都歴史研究會・代表

 

纏わる志士たち


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